大判例

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東京高等裁判所 昭和39年(う)2429号 判決 1965年11月30日

主文

原判決を破棄する。

被告人らは無罪。

理由

本件控訴の趣意は、被告人らの弁護人島田正雄、同青柳孝雄、同秋山昭一、同鶴見裕策連名の控訴趣意書に記載されているとおりであるから、これを引用する。

控訴趣意第三、四点について

所論は、要するに原判決には事実を誤認し、公職選挙法第百三十八条第二項及び第百三十八条の二の各解釈を誤りこれを適用した違法、更に憲法第三十一条に違反した違法があるというのである。

よって按ずに、原判決挙示の証拠、その他記録中に存在する証拠、証拠物及び当審における事実取調の結果によると、被告人等は昭和三十七年七月一日(原判決に一月とあるのは明白な誤記である。)施行の参議院議員選挙に際し、東京地方区から立候補した共産党の野坂参三の当選を支持したものであること、同年六月二十五日東京都葛飾区小谷野町四十七番地被告人高柳宅に、同被告人及び被告人根本、同三枝、佐々木茂、湯浅秀夫等が集合した際、右野坂の票読みを行ったが、その時被告人高柳は「今の状勢では野坂さんがあぶない。選挙まであと何日もないから明日から小竹さんのところに行って署名運動をやってくれ、この署名運動をやれば野坂さんの票がいくらかでも増える。」などと述べたこと、翌二十六日同都葛飾区小菅町百四十九番地被告人小竹方に、被告人根本、同三枝、右佐々木等が集合した際、右小竹は「選挙も間近いからやってくれ、署名と一緒にアカハタも持って行ってくれ、アカハタは一部五円で買って貰え、そうすれば共産党のことがよく解るし、選挙でも有利になる。但しただでやると選挙違反になるから売ってくれ。」などと述べたこと、原判示第一の如く、右佐々木茂外二名において、原判決別紙一覧表(其の一)記載のとおり、同年六月二十六日右選挙区の選挙人である同都葛飾区下千葉四百二十四番地母子住宅内村山一枝方外五ヶ所を戸別に訪問し、同人等に対し物価値上反対署名という表示を有し、共産党名義の記載のある署名簿を示して署名を求めたこと、原判示第二の如く、被告人根本、同三枝及び右佐々木において、原判決別紙一覧表(其の二)記載のとおり、同月二十七日右選挙区の選挙人である同都葛飾区下千葉町九百六十八番地帝都自動車社宅内堀江匡子方外十二ヶ所を戸別に訪問し、同人等に対し右同様の署名を求めたこと、原判示第三の如く、被告人根本、同三枝及び湯浅秀夫において、同月二十八日右選挙区の選挙人である同都葛飾区下千葉町五百五十五番地民生福祉住宅内野崎さと子方を訪問し、同人に対し右同様の署名を求めたこと、右署名簿の内容としては、「要求」として一、物価の値上がりをあおる私鉄、バス運賃の値上げをすぐ中止するよう要求します。一、電気、ガス、水道、新聞代の値上げや医療費などの値上げに反対し、その引下げを要求します。一、肥料、飼料、農薬、動力費、原材料など、農業や中小企業に必要な資材の値上げに反対し引下げを要求します。一、物価を上げる「高度成長政策」やめるよう要求します。一、軍事費を人民の生活向上にまわすことを要求しますとの記載及び日本共産党名義の「訴え」なる題下に(一)わたしたちの生活費は、五人世帯で月四千円もふえています。それだけわたしたちの生活はきりつめさせられています。池田内閣と自民党は選挙目あての「物価安定」を宣伝して人民の目をごまかしながら私鉄、バス、電気、ガス、水道、新聞などの公共料金をはじめ諸物価の値上げをねらっています。しかも池田首相は記者会見で「物価値上がりは国民の責任だ」と語っています。これはかつて「貧乏人は麦を食え」といったときと同じように、まったく人民をふみつけたもので、許すことはできません。(二)物価がこんなにあがるのは池田内閣と自民党が、公共料金や独占価格をつりあげて、アメリカと日本の大資本家の工場設備などを、無計画に拡張しているからです。これが池田内閣の「高度経済成長政策」の実態です。かれらはこうして軍国主義復活の土台をつくり、アメリカとくんでアジアで侵略をやろうとしているのです。(三)わたくしたちは、もうこれ以上がまんできません。たくさんの署名をあつめ、私鉄、バスなどの諸物価の値上げをやめさせましょう。わたくしたちの生活を切下げ、大資本をふとらせる「高度経済成長政策」と物価値上げ政策に反対しましょう。物価値上げ政策について政府、自民党、地方自治体に抗議しましょう。また国会と地方議会に請願する行動をおこしましょう。一九六二年四月という記載があるのみであり、右署名運動は、署名簿の署名欄に署名を求める方法によりなされたものであるが、前記被告人やその他の訪問者等は、訪問先において、先ず「共産党の者ですが」といい、「物価値上げ反対運動の署名をお顔いします」といって署名を求めるか、或いは「物価値上げ反対運動の署名をお願いします」といってから、「共産党の者ですが」といって署名を求めたものであるが、その間特に共産党の名称を言いあるいたと認めるべき点はなかったこと、訪問者の中には署名をした者もあり、また署名を拒絶した者もあったこと等が認められるのである。

而して本件においては、叙上署名運動というものが、公職選挙法百三十八条第二項の選挙運動のため戸別に政党の名称(本件においては日本共産党)を言いあるく行為と認められるか及び同法第百三十八条の二の選挙に関し、投票を得しめる目的(本件においては日本共産党の候補者野坂参三に投票を得しめる目的)をもって選挙人に対し署名運動をなした場合と認められるか否かということが問題となるわけであるところ、前記認定やその他≪証拠省略≫を綜合すると、本件署名運動なるものが、何等の意味においても野坂参三の当選ということと無関係であるといえないことは明らかであるが、全証拠を綜合すれば、被告人等にいわゆる選挙運動の目的、特に候補者野坂参三のため投票を得しめる目的があり、そのため署名運動に名を藉りたものであるということは明認し得ず、せいぜい戸別に物価値上反対の署名運動をすることにより、候補者野坂に対する投票がいくらかでも増すであろうということを期待する考が存したに過ぎないと認め得る程度であるが、当裁判所としては、その程度の意識というものは、これを公職選挙法第百三十八条の二所定の「選挙に関し投票を得しめる目的がある」というには足りないと認める次第である。若しそうでなく、この程度の意識でも同条所定の選挙のための目的を有するものと認定し得るとすれば、選挙に当面した場合のあらゆる政治的な署名運動の如きは、これにより特定政党の特定候補者の投票を期待するという意識を多かれ少かれ含まないものは殆んどあり得ないと認められるから、署名運動をするだけで総べて右法条の禁制に触れるという非常識な結果を招来するであろう。更に、本件署名運動が被訪問者等の側よりみて、野坂候補の投票を得しめることを目的とする署名運動と認められたか否かについて考察してみると、これまた前記被告人及びその他の者の行動が右選挙運動のためであるということを認識し得べき情況の下になされたということは認め難いといわなければならない。元来公職選挙法第百三十八条の二の署名運動の禁止とは、公職選挙法第百三十八条第一項の戸別訪問の禁止に伴い、特定の候補者のための署名による選挙運動を禁止するのは当然であるという至極平凡な事実関係を前提としているのであるが、本件において訪問を受けた証人等の証言によっても、本件物価値上げ反対の署名運動なるものの真意が、共産党の候補者に投票を得しめるという目的に基づいているということを認識し得た情況であったということは認め難いのである。もっとも、証人の中には選挙目的に基くのではないかと疑った者もいたようであるが、それはいわば、選挙期間であるから通常の署名運動の如きも違反になるのではないかというような漠然たる疑惑で、候補者野坂に投票を得しめるという目的を秘めている署名運動であるということを認識し得たという意味ではないと認むべきであって、このことは署名運動に当った被告人等は、予め被告人小竹、同高柳等から、本件の署名運動を選挙運動ととられないように行動するように注意を受けており、実際にもその点慎重に行動していることが認められることと符合するというべきである。すなわち、堀江匡子の如き「自分は署名のとき選挙運動と関係があるとは全然思わなかった。」といっているが、(伊東道子、須田はつ、原沢文子等も同旨)それは、同人が感が悪くて認識ができなかったというより、むしろ被告人等の行動に物価値上反対の署名運動以外の目的の存在を窺わしめるに足る行動がなかったがためであるという方が相当である。永井久子の原審証言中には、「署名して玄関を出てから共産党の者ですが、選挙でもお願いします。」といったという部分があるが、もしこれが本当であるとすると、選挙運動のための戸別訪問そのものであるという証左になるが、そのような証言をしているのは同人一人のみであり、しかも、同人は「被告人等は外へ出て戸をしめるとき、選挙でも頑張りますというふうにいって帰った。」ともいい直しており、前記「選挙でもお願いします。」といったという部分については的確性を欠くので、信憑性があるとは認め得ず、固より本件における他の被訪問者の場合を律するに足る証拠とすることはできない。結局、本件署名運動では、当該選挙において候補者野坂参三に投票を得しめる目的のためであるというに相応した方法、態様の行動があったということは疑わしいというべく、換言すれば、本件が単なる物価値上反対運動という外観を呈しているが、実は特定候補者である野坂参三に投票を得しめる目的に基づく署名運動に藉口した選挙運動に外ならないということを認め得る特別事情の存在の立証は不十分であるといわなければならない。

次に、本件において被告人等が選挙運動として政党の名称を言いあるいたというのは、前記認定のとおり、各戸訪問に際し、「共産党の者ですが」といって物価値上反対の署名を求め、或いは署名を求めた後に「共産党の者ですが」といったことを指すと認める外はないが、本件署名運動が前示の如く投票を得しめる目的でなされたものと認めるには不十分なことと相まって、この程度の所為をもって、共産党の名称を選挙人に強く印象ずけることによって、候補者野坂の投票を得るという選挙運動がなされたものであると認めるには不十分であるといわなければならないから、本件において公職選挙法第百三十八条第二項の違反があると認めることも困難である。

以上これを要するに、本件においては、被告人等が共謀して選挙運動のため共産党の名称を言いあるいたとの点及び特定候補者に投票を得しめる目的の下に物価値上反対の署名運動をしたものであるとの点について、いずれも犯罪の証明があるとするには十分ではないというべきところ、原判決が右両点についていずれも有罪の認定をしたのは、証拠の取捨、判断を誤り、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認をし、ひいて法令適用の誤をしたものとの疑があるといわざるを得ないから、各論旨は理由があることに帰し、原判決は爾余の論点につき判断をするまでもなく、破棄を免れないといわなければならない。

よって、刑事訴訟法第三百九十七条第三百八十二条に則り原判決を破棄すべく、但し同法第四百条但書により、当裁判所において直ちに判決をすることができる場合であると認め、被告事件につき更に左のとおり判決をする。

本件公訴事実は、「被告人等は昭和三十七年七月一日施行の参議院議員通常選挙に際し、東京地方区から立候補した野坂参三に投票を得しめる目的をもって、同候補の選挙運動のため、被告人小竹、同高柳は佐々木茂外二名と共謀の上、昭和三十七年六月二十六日原判決別紙一覧表其の一記載の村山一枝方外五軒の選挙人方を、被告人小竹、同高柳、同根本、同三枝は佐々木茂と共謀の上同月二十七日原判決別紙一覧表(其の二)記載の堀江匡子方外十二軒の選挙人方を、被告人小竹、同高柳、同根本、同三枝は湯浅秀夫と共謀の上原判決別紙一覧表(其の三)記載の野崎さと子方外一軒の選挙人方を戸別に訪問し、同人等に対し物価値上反対運動に藉口し、日本共産党の名称を言いあるき、かつ、同党名の記載のある署名簿を示して署名を求め、もって右選挙に関し署名運動をするとともに戸別訪問をしたものである。」というのであるが、選挙運動のため日本共産党の名称を言いあるいたものであるという点並びに候補者野坂参三に投票を得しめる目的で署名運動をしたものであるという点のいづれについても、法定の要件を具備した犯罪行為があったと認めるに足る証明が十分ではないと認めるべく、殊に、六月二十八日吉永久子方において池田勇一に対し違法の署名運動をし且つ共産党の名称をいい歩いたという事実の如きは、被告人等において自発的且つ任意に吉永方を訪問したものではなく、民生福祉住宅内の居住者等に右吉永方に連れ込まれ、いわゆるつるし上げを受けたと認むべき場合であるから、なお更本件違反事実の有無を論ずるには足りないというべく、ひっきょう本件は全部犯罪の証明がないことに帰し、刑事訴訟法第三百三十六条に則り、被告人等に対してはいずれも無罪の宣告をしなければならない場合であるといわなければならない。よって主文のとおり判決する次第である。

検事荒巻今朝松関与

(裁判長判事 久永正勝 判事 井波七郎 宮後誠一)

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